「承認はいらない」と思えた時、人生は静かに自由になった

心理学

「私のことを認めてほしい」
「私のことを分かってほしい」
「私のことを受け入れてほしい」

他者に対してこのように求める人は少なくない。

人間は社会的な生き物であり、集団の中で承認されることで安心感を得てきた歴史がある。

そして、そのような価値観が当たり前だと刷り込まれてきた私たちは、承認欲求を満たすことで喜びを感じるようにできている。

だが、現代社会ではその承認欲求がしばしば過剰になっている。


SNSでは「イイネ」の数に一喜一憂し、身近な人間関係でも「理解されたい」「共感してほしい」といった欲求が常に渦巻いている。

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「承認されたい」


その思いは、本当にあなたの自由な生き方につながるものだろうか?

今回は、現代の承認欲求が「自由な生き方」を阻害している可能性について考えてみる。

■「認められたい」の正体

なぜ人は他者に承認を求めるのか?

それは他者から認められることで、自分の価値や存在意義を確かめたいという根本的な心理があるからだ。

この欲求の背景には、生き残りをかけた人類の進化的な戦略がある。

私たちは、孤立よりも集団の中で支え合うことで生き延びてきた。
そして、集団に受け入れられた個体こそが、より安全に、より多くの子孫を残してきた。

その結果、「他者に認められたい」と感じる傾向を持つ人間が、生き延びてきたわけだ。

つまり、承認されることで得られる安心感や肯定感は、生存のための装置として私たちの中に組み込まれている。

だが現代において、その装置は自由への足枷になっていないだろうか?



言い換えれば、それは自分の生き方を他人に委ねてしまっている状態とも言える。

■その“承認欲求”が満たされることはない

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承認欲求とは、他者に自分の価値や存在を認めてもらいたいという欲求である。


これは、人間が社会的な生き物である以上、誰にでも多少なりとも備わっている自然な感情だ。

ただし、その「承認を求める動機」には、実は大きな違いがある。

たとえば、自分の努力を見てほしい、感動を共有したい、何かを成し遂げたことを誰かと分かち合いたい――
こうした承認欲求は、比較的ポジティブな動機に基づいている。

一方で、居場所がない気がする、自分には価値がない気がする、誰からも必要とされていない気がする……


そうした漠然とした不安や欠乏感からくる承認欲求もまた、多くの人が抱えるものだ。

どちらも、広い意味では「承認欲求」と呼べる。


だが、ここで重要なのは――その欲求があなたをどう動かしているかだ。

 

不安から動くと、承認されることが目的になる。



本来、自分自身で価値や成果を認められていれば、他者からの承認は励みや喜びにはなるが、必ずしも不可欠なものではない。

けれど、不安がベースになると、他者の承認が「心の安定を保つための必需品」になってしまう

「認めてもらえなかったらどうしよう」
「誰にも必要とされなかったら生きてる意味がない」
――そんな風に、自分の価値を他人の評価に明け渡してしまう。

 

ここで考えたいのは、その承認欲求の動機を自覚しているかどうか

不安から逃れたいのか、自分の充実感を誰かと共有したいのか。


その違いは、あなた自身の行動や自由に、大きく影響している

 

もしあなたが、「承認されないと落ち着かない」「孤独に耐えられない」という状態にあるのなら、

その承認欲求は自分の感情に支配され、振り回されている状態かもしれない。

そこから抜け出すには、まず「なぜ自分は承認を求めているのか」という問いを立ててみることだ。

承認欲求そのものが悪いわけじゃない。

ただ、それがもし不安や不満のはけ口になっているなら話は別だ。

他者の言動に解決を委ねている限り、その承認欲求が永遠に満たされることはない。

◎他者の基準で生きるという“静かな侵略”

他者からの承認への依存が強すぎると、自分の感情に振り回されるだけでなく、判断の軸も相手に渡してしまう。

私自身、昔は「認めてもらいたい」と思ったこともあった。

言われた通りに頑張ったり、人に褒めてもらおうとしたこともある。

でも、長くは続かなかった。


結局、自分がやりたいと思ったことのほうが長く続くし、成果も出る。

そして気付いた。


誰かに認められるということは、その誰かの基準に合わせることになる。

相手の要求はどんどん増える。
細かく、深く、さらに際限なくなる。

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「もっとこうした方がいいんじゃない?」

「このくらいできて当然でしょ?」

「君ならもっとできるはずだよ。」




――そう言われるたびに、私は思う。

「そんなに言うなら、自分でやれ。」

相手の要求が肥大化する一方であるなら、承認されることで得られるものより、自分の主導権を差し出すことのほうが余程損失が大きい。

他者の基準に合わせて生きることに、どれだけの価値があるのか?


それを問い直すことから、自分の人生はやっと“自分のもの”になる。

◎「繋がりたい」は、本当に“繋がりたい”のか?

現代では承認欲求と繋がりたい欲求が、しばしば同じ文脈で語られる。

「誰かと繋がりたい」

この動機が、比較的ポジティブな動機に基づいているなら、その繋がりは人生の豊かさに繋がることだろう。

しかし、漠然とした不安や欠乏感から逃れたいというネガティブな動機であれば注意が必要だ。

“繋がりたい”という言葉には、いろんな欲望が混ざっている。
理解・共感・依存・支配…

――それは本当に“繋がり”なのか?

多くの人は、「繋がりたい」と言いながら、実際には都合よく甘えられる相手を求めているだけではないか。

「受け入れてくれる人が欲しい」
「わがままを聞いてくれる相手が欲しい」
「自分の感情をぶつけても平気な関係性がほしい」

そういう相手がいたら確かに楽だろう。


でも、そんな相手は基本的にいないし、いてもずっとは続かない。

結局、不安の根は自分で向き合わない限り、どんな承認でも埋まることはない。

他者との繋がりは、その先にあるものであって、不安の穴埋めではない。

そして、その不安の根に向き合う第一歩は「孤独を受け入れること」である。

■「孤独を受け入れる力」こそが自由の入口

「孤独」という単語を聞くと、多くの人がネガティブな印象を抱く。

可愛そう、寂しい、暗い…

果たして本当にそうだろうか?

世間では「孤独は良くない」と言われがちだが、それは他者との関わりにしか価値を見出せない者の視点ではないだろうか。

私は孤独を怖いとは思わない。


むしろ、付き合いで価値観の合わない他人と一緒にいる時の方が違和感や不快感を覚える。

「なんで私はここにいるんだろう?」
「この人たちといても、ここは自分の居場所じゃないな」

私にとって、本当のストレスは、そう感じる瞬間だ。

あなたも孤独を避けるあまり、自分の時間も感情も、他者に明け渡していないだろうか?

それに対して、一人で静かに過ごす時間は自由と充実感をもたらせてくれる。

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たとえば、春風に舞う桜の花を眺めながら、こみ上げてきた感情を静かに噛みしめる。

地平に沈む夕日と徐々に暮れゆく空を見て、静かに物思いにふける。


誰にも干渉されず、自分のペースで、自分の価値観で生きられる。

――これほど満たされた状態はない。

私にとってそれは「孤独」ではなく、不安や違和感からの「解放」だった。

自分の心が本当に落ち着く場所は、他者の中ではなく、自分の中にある。

◎承認を手放すことで得られる自由

あなたが他者に求める承認。

その動機を今一度考えてみてほしい。

その承認は、本当に「あなたの人生」に必要だろうか?


最終的に私が選んだのは、「他者に承認を求めない」という道だ。

他者の承認を必要とせず、他者に承認を与えることを強いられることもない。


この「非干渉」の関係こそが、私にとって最も自由で、ストレスのない形だった。

もちろん、誰にでもこのスタイルが合うとは限らない。


「孤独が苦手」「共感が欲しい」という思いが強い人には向かない。

でも、少なくとも、承認を得たいならそれに伴う「対価」があることを忘れてはいけない。

自由には責任がつきまとう。

承認には依存がつきまとう。

どちらを選ぶかは、あなた次第だ。


■人生は選択である。

この記事の結論は、共感の押し売りではない。


「あなたは選べる」という現実的な視点の提示だ。

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承認を求めること自体が悪いわけではない。


誰かに理解されたい、認められたい――それも人間の自然な欲求だ。

だが、それが「不安の埋め合わせ」や「依存の口実」になっているのなら、
いっそ手放すことで得られるものもある。


他人の目に怯えることなく、自分の足で立つ自由。


評価されることに消耗せず、ただ淡々と、好きなように生きる静かな強さ。

承認ではなく、自己選択によって生きる。


その視点に立つことが、「自分の人生を生きる」ための第一歩だと私は思う。

どちらを選ぶかは、あなた次第だ。


誰かの基準ではなく、自分の基準で選べばいい。

人生は、いつだって“選ぶ”ことでしか前に進まないのだから。

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